大阪では有名な、長柄の人柱伝説の後日談にあたる雉子畷について、その由来のある場所に現在も石碑が残されています。
虎宮火やニ恨坊の火等の伝承のある地を訪ねに、吹田界隈をまわるついでに、この雉子畷にも行ってきました。
[12回]
垂水村社頭の西の方にあり。
諺に云ふ、むかし長柄川に橋をつくるには、人ばしらなくてはなりがたしとてその人をえらみけるに、継ぎしたる袴をきるものをとらへて、人柱にしづむペしと、官家よりおはせあれば、新関を立ててこれを改む。
ここに岩氏長者といふ者あり。
これをしらず袴の継ぎしたるを着て通るに、関守とらへてゆるさず。
つひに水底にしづむ。
これによって橋なりにけり。
かの岩氏にひとりの娘あり。
容顔世にすぐれて艶しく紅粉を口親さずして色いつくしく、朝日にかがやく国色なり。
このゆゑに世の人光照前とぞ称じける。
しかるに成長るまでも不言ずして唖のごとし。
母悲軟かぎりなくふかくかくしけり。
ここに河内禁野といふ里の男この女を恋ひて垂水よりこれを迎ふ。
辞しがたくや有りけん、禁野の家に行く。
なほも言はざること久し。
夫怪しんで女をつれて母のもとへおくりぬ。
この畷を通るに雉子囁きければ、夫ねらひよりこれを射る。
ここにおいて女はじめて言ふて歌をよむ。
ものいけじ父はながらの橋はしらなかずげきじも射られざらまし
とくりかへしこれを諷ふ。
夫愕ぎ母のもとにもゆかで禁野につれかへり悦ぴあへり。
時の人雉子縄手となづく。
今の世までも継袴を忌めるはこの縁なり。
光照前も父の菩提を弔はんがため、髪をそり不言尼と号し栽松寺に入る。
その後山崎に不言尼寺を創しける
-摂津名所図会 巻六「雉子畷」より-
時はいにしえ、淀川の長柄の渡しに橋をかけようと地元の人たちが苦労したが、なかなか難事業で成功しなかった。
だれかが犠牲にならなければ、橋はできない、と我が身をかえりみず、人柱となった岩氏のおかげで、遂に立派な橋が両岸にわたり、こうして大勢の難儀が救われることになった。
岩氏のひとり娘は非常に美しい人であったが、この父の悲劇によって、物いわぬ人となった。
河内の禁野村の人にとついだ後も、ずっと物を言わなかったので、ある日、実家に帰されることとなり、夫とともに、ちょうどこのあたりへさいかかったとき、雉子が鳴いて、夫がそれを射殺してしまった。
その時、女は悲しんで
ものいわじ 父は長柄の橋柱 雉子も鳴かずば 射られざらまし
とよんだという。
それからこのあたりを「雉子畷」といいつたえたということである。
-吹田市教育委員会「伝説 雉子畷」より-
とは言っても、この様な碑が住宅地の一角に残されているだけなのですが…
人柱については、南方熊楠が実際に近世まで人柱が行われていたと主張していたり、柳田國男は山伏や比丘尼が物語として語り歩いたという線で見ているし、反対に日本は人柱伝説は多いけど、習俗として実際に存在したかについては否定的な立場の人も相当数いらっしゃいます。
日本のあちこちに残っている人柱伝説に多くの類似性が見られることから、黒猫としては柳田國男の説が説得力があるかな…と思っています。
最も実際に人柱が行われたか否かは判断を保留しています。
あくまでも広がっていった過程としての話です。
ただし、それを各地に伝える役目を果たしていったのが巫女であるかは、疑問を挟む余地があると考えています。
例えば、大阪の伝承を調べていたときに出てきた人身御供の説話、岩見重太郎伝説なども全国的に類似の話がありますが、物語伝達の媒介を巫女とする柳田國男の説では無理があるように感じるからです。
ただし、物語伝達の媒介が他の物であったとすれば、十分に説得力を持つのではないでしょうか。
雉子畷
場所:吹田市垂水町1-15近辺(ストリートビューでも見れるようです)