大阪市内に棲む黒猫が、大阪近辺の妖怪や民話の伝わる土地を訪ね歩いた記録です。 ツイッターで更新のお知らせをできるようにしています。 @youkai_kuroneko
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
[2回]
つづきはこちら
どこへ行くか悩んだ挙句、結局足を運んだのは八尾市にある恩智神社。 選んだ理由は、と言うと「干支が兎だから、兎に縁のある神社」という、ただそれだけ。 ともあれ、妻と子二人を車に載せて出発。 黒猫の住む大阪市内から30~40分で目的の恩智神社に到着。 道中、下の子が寝てしまったので、妻と一緒に車に残し、上の子と二人で参拝する事としました。 この様に参道が続きます。 なんでも131段あるとか。 神社へいたる道も道幅が狭く、対向車があると少々苦労します。 まずは手水を 早速、兎です。 拝殿 兎年なのであちらこちらに兎が 拝殿の左右に神龍と神兎が。 撫でるとご利益が有るとの事で、娘と一緒に早速ナデナデ 本殿 ここにも兎 八大龍王も祀ってありました。 閼伽井戸 (清明水) この井戸はは古くより天候を予知する清水として知られ、雨の降る前になると赤茶の濁水が流れ出るという不思議な井戸だとか。 この日の水は澄んでいました。 境内から平野部を望めます 屯宮 この公園のあたりは天王の森と呼ばれ恩智神社のお旅所だったとの事です この森を中心として東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な弥生時代の遺跡で大阪府の立てた碑があり、近年縄文式土器も出土しています。 何故この神社に兎が祀られているのかというと、何でもこの神社の使いとして道案内をした所以との事。 そもそもこの神社は神功皇后が三韓征伐の際、住吉大神と共に海路、陸路を安全に道案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により、神社創建時に朝廷から七郷を賜ったことが由緒だとか。 以来、河内国二宮として参拝客も絶えない神社だとききます。 初詣、ということで考えるなら枚岡神社へ行ってからの方が良かったかな? 最もそれをいうのであれば、黒猫の住んでいる摂津国の一宮である住吉大社か坐摩神社の方がより適切といういう気がしないでも有りません。 今回の目的は、「兎」なので良しとしましょう。 今年も良い年でありますように。 恩智神社 場所:大阪府八尾市恩智中町5丁目10番地
[5回]
まずは基本的なことから。 日本には、古来、狐に代表される動物霊に恨みをかったため為に憑依されたと言われる人の精神の錯乱した状態を、「○○が憑いた」と呼びあらわしていました。 この人に憑く物を「憑き物」と呼びます。 「憑き物」が狐の場合「狐憑き」と呼ばれますし、狸の本場四国では「狸憑き」もありますし、蛇に憑かれる、餓鬼に憑かれる、等々いろいろあります。 たいてい「憑き物」は個人に憑くものですが、一族代々憑かれているとされる場合もあります。 この場合「憑き物筋」と呼ばれます。 この記事では日本国内における、「憑き物」の変遷を辿ってみたいと思います。 古来より「狐憑き」に代表されるような「憑き物」は、地域を問わず語り伝えられています。 文献でも、平安時代に編纂された「今昔物語集」にも見ることが出来ます。 「憑き物」は何も日本に限った話ではなく、世界各国で見られます。 キリスト教世界でも聖霊が憑いた宿ったといわれる伝説はよく聞きます。 最も、中世以降は「悪魔憑き」「狼憑き」等というどちらかと言えば悪い側面にとられることが多くなっていったようですが。 これは歴史的変遷をみれば未だ体系化まではいたっていなかったと思いますが「神道的な日本人の思考体系」と、体系化された「キリスト教」の教義の違いから出てくるものでしょう。 また、そもそも憑依(ポゼッション)型シャーマニズムは「憑き物」が信仰の土台となっていますので、世界中で見られると言っても過言ではない現象であったと言っても良いでしょう。 韓国にも巫女が存在していますので、動物霊という考え方はともかく「憑依」という文化はあるのは間違いないありません。 さて、日本に限定して話を進めると、狐や狸と言った動物霊の仕業であるとされていたそれらの「憑き物」は、「一本堂行余医言」(1788年)では「狐憑きも野狐の祟りなどではない。被害妄想、誇大妄想、感情荒廃、強迫観念、自閉、不眠、幻想、抑鬱などは狂の症状である。」との意味を記していた(Wikiより。原文は量が多くどこに書いてあるか探しきれてないです;;)と記述があったり、「人狐弁惑談」(1818年)にも、「狐憑は狂癇の変証にして所謂卒狂これなり、決して狐狸人の身につくものにあらず」として、キツネが霊獣ではない例証、狐憑きが馬憑きに変わる例を挙げ、「畢竟これ皆精神錯乱の致すところなり」と結論しています。 つまり、18世紀後半以降、「憑き物」は精神疾患の症状と看做す動きが出始めてきています。 無論、これらはあくまで学者間で認識が出来上がっていく過程であり、巷ではまだ狐、狸の仕業とされていました。 以降、西洋の学問が入ってくるのと並行して、政府としても俗信として、その払拭に努めてはいきましたが、完全に無くす事は出来ず現在に至っています。 とはいえ「動物界霊異誌」(1928年)でも明治中頃から、動物にまつわる怪異体験が急速に少なくなりつつあるとされています。 しかし著者の岡田建文は、その原因として近代科学の啓蒙活動よりも、むしろ身近に狐狸が見られなくなっていったのが原因ではないかと指摘しています。 「動物界霊異誌」には、私の棲む大阪でも明治40年(1907年)に「豆狸」が憑いた例が取り上げられています。このブログにおいても舞台となった現地を訪ねた記事もあります。 記事はこちら。 平成の世ではこの界隈で狐狸を見かける事はまず無く、「憑き物」の主体となるには現実感が乏しくなったと云わざるをえません。 最も以前は近隣には狸がよく出たので狸坂といわれた場所(狸坂自体は既に現存せず)や、「大阪繁盛詩」(1862年)等からも近代以前は狸が身近にいた事が窺い知れます。 狸坂大明神はこのブログにも紹介させていただいております。 記事はこちら。 それでも残念ながら、近隣の子供たちは狸自体を見たことはありません。。。 岡田建文氏が述べたように「憑き物」を放逐するのは科学的説明よりも都市開発なのかも知れませんね… しかし近年でも「憑き物」を科学的説明で解釈しようとはせずに、古来からのシャーマニズムの論理そのままで受け入れるという地域や集団もあります。 日本においては沖縄のユタ(yuta)や青森のイタコ(itako)などが有名でしょう。 上の例を挙げるまでも無く、シャーマニズムが現実感のある存在であるためには、自然が身近にある必要があるのでしょう。 また特に沖縄は、日本の他の地域と比較して精神医療の分野が立ち遅れました。 よって精神疾患を抱えた患者が病院に入ることがなかった(精神病院が無かった)ことが大きい要因であるとしている学者もいます。 というのも、本土では明治8年に私立の癲狂病院が設立されたのを皮切りに戦前から精神病院が設立されてきました。 大正時代には「精神病院法」を制定して各都道府県に精神病院を設立する事を目指しましたが、実際には強制隔離施設としての私立病院が本土に設立されただけに留まりました。 また、法制度的には明治33年に「精神病者監護法」が制定され、手に負えない患者は私宅監置することが認められました。 そこまでは本土も沖縄でも変わらないのですが、同法は昭和25年「精神衛生法」によって廃止されます。 これにより家族ではなく国が精神病患者を収容する形に変わっていったのですが、当時沖縄はアメリカの支配下でした。 そのため、同等の法律ができる昭和35年まで、症状の激しい人以外は一般の人と共に社会生活を送ることとなったわけです。 一応、沖縄でも支配下に置いたアメリカによって設立された米軍政府病院において昭和20年に精神科が開設され、昭和23年に精神病床が、そして昭和25年に精神病院が設立されています。 そして、本土復帰以降は沖縄には多くの精神病院が設立されました。 しかし、その頃には精神医学でも「カミダーリ(憑依)」などは精神解体というよりは、人間の示す積極的な営為の一つであるというように、憑依現象に対して肯定的な見方もなされるようになりました。 現在でも「医者半分、ユタ半分」という習慣もあるようです(医者がユタを勧める)。 確かに、本土でも隔離中心のそれ以前の精神医学のありかたに対する反省も起こっていた頃で、「カミダーリ」を「精神疾患」という枠にはめ、治療すべきものとすることに疑問が投げかけられました。 いわゆる「憑依(狂気)の有効性」が精神科医により指摘されたのです。 それゆえ、沖縄は日本本土や西洋近代社会との比較において「憑依(の一部)を肯定する社会」という特異性を現在まで持ちえる事が出来たと捉える事も出来ます。 平成の世でも、こと人間の精神活動において、科学が万能たるところまでは到達できていないようです。 少なくとも現在のこの分野では、科学よりも信仰等の方が有効打たりえる場合もあるという証左になるかと。。。 救われるのであれば、科学でも信仰でも私は構わないと考える次第です。。。 さて、個人に憑く「憑き物」とは異なり、一族に憑くという「憑き物筋」に話を移してみたいと思います。 この分野に関しては、小松 和彦氏という方が憑霊信仰論の中でいろいろ論じていらっしゃいます。 その中で、「憑きもの筋」の信仰に関わる重要な要素として、それが村落共同体の中でも比較的富裕な家に多く見られるということが分かっているそうです。 しかも、豪農など旧来から村落に居住していた家に対してはこういった信仰はみられず、二次的に外部から移住してきた家が財を成した場合に、その家が「憑き物筋」と見られることが多いとのこと。 つまり、憑きもの筋の多くは「よそ者の成り上がり者」であり、これが憑き物筋の信仰に深く関係していると推察できます。 村落のような閉鎖社会においてその共同体構成員の共同体内部に存在する富のイメージとして、「富、愛情、好運などは限られた量しかない」という認識方法が一般に存在しています。 昔からの富豪はもともと裕福だったのだから、他の共同体構成員にとって何の関係もないが、二次的な移住者が短期間で富を蓄積すると、他の構成員にとって、 「あの家は他人の富を横取りして豊かになった」 「あの家が豊かになったということは別の誰かの家が貧しくなったということだ」 という認識が生まれます。 これが村人達の被害者意識を増長させ、「よそ者の富は不法な手段で手にいれたもの」という妄想から誹謗中傷を生じさせ、「憑き物筋」という説明体系が生まれてきたのではないか、と論じています。 江戸時代は士農工商の身分制度が確立し、階級間の流動性が殆どなくなって、それまで全国を流浪していた下級の聖、遊行僧、芸人たちが定住を強いられた時代でもありました。 つまり村落共同体に二次的移住者が増加したわけです。 そして、江戸時代は貨幣経済が全国的に普及した時代でもあり、閉鎖的な農村の住民においても、隣村や都市と交易をすることにより、商業的才覚や好機さえ?めば、飛躍的に富を蓄積することが出来るようにもなった時代でもありました。 しかし、農村の多くの住民にはこれらの経済システムが理解不能であり、自給自足の村落共同体で富を集中させるために、「よそ者」が「憑き物」を使役しているという「説明」を容易に受け入れることになったとしています。 また「憑き物筋」とされる家系の者達も、その多くが村人に流布する悪評を裏付けるように、自らを「憑き物筋」と認め、それらの動物霊を神として祀っていたところが多いというのは面白いところでしょう。 かつては畏れられることによるメリットが十分にあったのでしょうね。 この説の真偽の程はさておき、非常に面白い説であると思います。 「憑き物筋」に対する説の真偽は別に、この様な村社会、閉鎖社会で有効だった「説明体系」による不公平感、不満を心理的に納得させる手法は、現在でも生きていると思っています。 そしてこのロジックを利用したこの種の「呪詛(jyuso)」は、現代社会でも効果的だと考えます。 その閉鎖集団の思考体系さえ理解していれば「呪(syu)」をかけることができる訳ですので… 逆に「説明体系」を解体する事による「憑き物落し」もできるのでしょうし、現在それを職業にされている方もいるのでしょうね。 今回はこんな所で。
日本には、神や妖怪を鎮めるために若い娘たちを生贄として差し出した、いわゆる人身御供が昔行われた、と伝えられる地域が散見されます。
[0回]
大阪府下の妖怪の足跡を調べていたところ、大阪北部や兵庫県にもいくつかそのような土地がありました。 まず、おそらく最も有名なものが大阪市西淀川区 野里住吉神社。 ここは今でも奇祭「一夜官女」が執り行われています。 記事はこちら。 由緒書きでは、「狒狒」とされていますが、大蛇だと伝える話もあります。 さて、大阪市からさほど離れていない(直線距離なら10km程)西宮市 岡太神社にも同様の伝承が残されています。 記事はこちら。 話の内容は舞台を岡太神社に移しただけで、瓜二つのものです。 こちらは西宮市のHPにも紹介されており、そちらでごらんになっていただける事ができます。 岡太神社ではその事を「一時上臈」という祭りで表し、現在も執り行われています。 また吹田市 吉志部神社にもあります。 記事はこちら。 こちらは、神もしくは妖怪は狒狒ではなく大蛇とされ、退治したものは岩見重太郎から吉志俊成へとかわっていますが、話の大筋は同じものです。 と、阪神地域で現在調べがついたものだけで、少なくとも3箇所に人身御供の伝承がある地域があり、私が調査できていない物もある可能性が在ります。 また、それらの地域に伝わる伝承は、全て話の大筋は同じものであるというのも興味深いものがあります。 実はこのような話は、猿神退治という民話で全国的に散見され、この阪神地域に限ったものではありません。 岩見重太郎伝説もしかり。日本のあちらこちらで極めて類似する話が語り継がれています。 こうなれば、何らかの事件を語り継いでいるというよりも、何らかの事柄を暗喩しているのではないでしょうか? 調査を進めてみると、野里住吉神社の「一夜官女」も「一時上臈」と呼ばれていた時期があるらしいとのこと。 そういった事を考えた場合、これら祭りの「根」には同じものがあるのでしょう。 岡太神社の「一時上臈」の「上臈」とは「女郎」、即ち「遊女」を指す言葉のようです。 赤松啓介等の著書を取り上げるまでも無く日本は、もともとは女系社会でした。 「竹取物語」を見ても、男性が女性の家に「この方を妻として娶りたい」と申し出る場面があることは有名であるが、そのような「妻問婚」も一般的でした。 また、女系社会であるが故、男性の血筋と言うものは重要視されず、尊い稀人の血を受け入れるため、「一夜妻」という風習もあったようです。 「一夜女郎」「一時女郎」、これらは「一夜妻」を指していたのではないでしょうか。 現代に生きる我々からみれば奇妙にうつるそれらの風習も、女系社会と言う視線から見れば、優れた血を取り入れる極めて合理的なものであったのでしょう。 そうした目線から見てみれば、「一夜官女」「一時上臈」と言う祭りの背景には、女系社会から男系社会へ移り変わっていくに従い、無くされていったそのような風習があったのではないでしょうか。 よって、主役として描かれる者は男系社会の象徴たる武士となり、そして男系を主軸としてみた場合、妻を奪う稀人は妖怪「狒狒」として貶める必要があったのではないでしょうか。 赤松啓介がそのフィールドワークの舞台としていたのは、姫路から神戸にかけてが中心であったと聞きます。 少なくとも上記の祭りが執り行われる阪神地域のムラ社会では、女系社会独特の風習があったというのは間違いないことでしょう。 阪神地域に伝えられる、このような祭りの根としてそういった性風俗の変遷があったのではないか、というのは無理があるでしょうか? もっともこれは、黒猫の想像にすぎません。 今後研究者によって明らかになるかも知れず、事実と異なる可能性も高い事をご理解ください。
[3回]
<<前のページ HOME
1 | 2 | 3 | 4 |