大阪城堀島町通り突き当たりの箇所に、かつて蛙石があった。
直径五尺ぐらいの自然石で、先端は掘りにむかっていた。
形は蛙に似ており、この上にあがると堀へ飛び込みたくなくと恐れられる。
昔はここで自殺する者が多かったので、枳殻で囲っていたが、今は見当たらなくなった。
-東区史より抜粋-
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大阪城築城のおり、諸大名は争って石好きの秀吉のために変わった石を献納したとのことで、この蛙石もその内の一つとか。
「摂陽群談」によれば、もともとは、林寺(現大阪市生野区)にあった殺傷石であったとか。
秀吉はこの石を大変気に入り、何か思案するときにはこの石に座って瞑想にふけったとも伝えられます。
元話元年(1615)5月、大阪城落城で淀殿は自害し、腰元たちは遺体をこの蛙石の下に埋めたと伝えられ、以降様々な怪異が発生するようになったと伝えられます。
徳川氏は秀吉大阪城を取り壊してその上に、新しい大阪城を築きましたが、蛙石のあたりは何度も気品のある女性の亡霊が数名の供を従えて現れたとの、風評が流れ、置場所が転々としたあと、明治以後「東区史」の記すあたりに落ち着いたといわれます。
さてこの「大阪城堀島町通り突き当たりの箇所」とはどこか手元の資料では確実とはいえないのですが、どうやら乾櫓の対岸隅にあたりとのことです。
その後も怪異は止まず、明治から大正にかけて、大阪城の堀に飛び込み溺死する何人かの自殺志願者があったようですが、不思議な事に誰もが蛙石に上って飛び込んだとの事です。
また堀の水はゆるやかに流れていますが、溺死体はあちこちさまよった挙句、必ず蛙石付近に浮かび上がって流れ着いたとのこと。
昭和に入ると、さすがに「淀殿の祟り」を信じるものは少なくなって、いつしか蛙石の風評は忘れらさられて行ったようですが、昭和15年(1940)、蛙石の真下の堀に若い男がうつぶせになって浮かんでいたのが発見されます。
発見者の通報で小舟を出したところ、幸いまだ息があり、病院へ担ぎ込まれて手当ての結果一命を取りとめました。
しかし彼は、自殺したのではないと主張。
彼によると、蛙石に座って写生をしていたところ、なんともいえない夢を見るような甘い気分になった。
はっと気がつくと眼の前に十二単衣を着た美しい女性が、数名の供を従え、手招きする。
見とれているうちに、体が浮いて女性に吸い寄せられるように近づくうちに、堀へ転落したと言い張ったらしい。
これが新聞沙汰になり、あっという間に脚色されて世間に広がり、見物人が押し寄せたものだから、師団司令部によっていずこかへ撤去されてしまったそうです。
これにより「東区史」にあるように所在不明となったものの、昭和32年(1957)初夏、近畿管区行政監察局(当時法円坂町に在り)に勤務していた天羽蒋次氏が、近くにあった「警察クラブ」横の藪中でそれと思しき石を発見。
さっそく関係者と協議の上、この発見された「蛙石」が本物であった場合、しかるべき寺院に移祀するのが良いだろうという話になった。
そこで氏の知人であった元興寺(奈良県)の住職に依頼し、同寺へ運び込まれ、今に至るとのことです。
という流れですので、現在元興寺にある蛙石は淀殿の崇りが恐れられた蛙石と必ずしも同じものかどうかはわかりません。
さて、そういった謂れのある蛙石が、かつて設置されていたと思われる場所にいってみました。
夕食を作るのに息子の相手をしててね♪と言われたのでフラッと大阪城まで脚を運んでみました。
蛙石があったと思われる大阪城外堀北西角(乾櫓の対角)から乾櫓を望んだところです。
この場所のすぐ下の外堀の様子です。
写真のように、この角には木やゴミが溜まっています。
そこから外堀を見回してみても、他にこのように木やゴミが溜まっている箇所は見受けられません。
溺死体は、必ず蛙石付近に浮かび上がって流れ着いたと言われますが、やはりこの場所に間違いはないのでしょう。
それにしても、外堀の水は流れがあるようにも見えないのに、このようなゴミ溜まりのような場所ができるのが不思議ですね。
左の写真は、いずれも角度を変えてその場所を写してみたものです。
外堀北西角は、その西側は柵と看板に囲まれた、一応灌木が植えられた茂みのようになっています。
そして北側は歩道になっています。
現在では跡形もありませんので、この写真に写ってある場所のどこかだとは思うのですが、残念ながら現在の所これ以上は分かりませんでした。
昭和初期の写真でも残っていたら良かったのですけど。
大阪城外堀北西角
場所:大阪市中央区大手前近辺